不登校だと困ること①

不登校だと、ダメなわけではありません。

ただ、困ることがとても多いです。

 

学校は子どもにとって、ほぼ唯一の認められた居場所であり、生徒という立場からは逃げられません。

 

なぜなら、日本では子どもに教育を受けさせることが親の義務だからです。

 

教育ではなく、学びということであれば、広範囲のことがらにおいて学びは存在するし、生きているだけでも学び無くして生きることはありえないほどに、日常は学びに満ちています。

 

けれど、ひとたび「義務教育」となれば、教科を学び評価されてはじめて学んだとみなされます。今の日本では「義務教育」を受けられる唯一の場所が学校というわけです。

 

学校というシステムでは、評価と出席が進路に影響するため、理由がなんであれ、学校に通わず、評価と出席を稼げないとなると、進学や就職に悪影響が出ることになります。

 

裏を返せば、何を学んでも、評価と出席に反映されない限りは学校という組織から離脱したのと変わらないことになってしまいます。

 

ひと昔前は、学歴で就職も決まり、

人生の様々な場面で学歴がものを言いました。

今でも全くそれが無くなったとは言えない社会です。

 

子どもに教育を受けさせる真の目的は、

社会で生きて行くために必要な知識やスキルを誰でも等しく身につけることができるようにすること、と言えるかと思います。

 

とすると、学校に通えないことで、必要なことを身につける機会を失うことが真に問題であると思うのです。

 

学校に通えない子どもたちにはそれぞれ理由があり、彼らの多くは、学ぶ機会を失うリスクを理解してもなお、学校に通うことができないのです。

 

学校というところに通わなくても、

生きるための知識やスキルを身につけることができ、

認定される仕組みが必要ではないかと考えています。

 

不登校でいい。生きて!

わたしは不登校の子どもを持つ母です。

3人子どもがいて、3人とも不登校です。

不登校と向き合って3年以上経ちますが、ようやく不登校が何なのかが少しわかってきました。

 

子どもが全身全霊でわたしに教えてくれたことは、

 

今の社会が、大人の作ったルールが、子どもにとって苦しいものだということ。

 

ただただ、毎日を幸せに生きたい!という純粋な魂の願いが不登校という形になり、察しの悪いわたしに教えてくれたのだと理解しています。

 

この世に生まれた人は誰でも幸せに生きる権利があるし、

生まれた以上は幸せになることが命を大切にするということなのです。

 

けれど、今の世の中の仕組みでは、それを実現するのが難しいということなのです。

 

夏休みの終わりに、

学校へ行きたくない皆さん、

 

あなたは悪くありません。

ダメでもありません。

あなたを否定する親や友達、先生から

逃げて良いのです。

ただ、お願いです、

生きることを諦めないでください。

あなたは、大切な大切な人だから。

 

今あなたが抱える苦しみの原因は、

大人が作ったものです。

 

大人が、社会が、あなたに合う場所を用意できていないだけなのです。

学校という選択肢しかないことがおかしいのです。

 

今居場所がないと感じていても、

あなたはこの世の中に絶対必要な人なのです。

 

今ある社会のルールに疑問を持てる人だけが、新しい世界を作っていける人なのです。

 

人生の喜びを知る前に命を捨てないで!

あなたはこの世の宝なのだから。

 

あなたを信じる人が周りにいないと感じても、

あなただけはあなたを信じて、今日を生き延びて。

 

大人も社会も変わり始めています。

子どもに教えてもらい、わたしも少し変わることができました。

 

まだまだ子どもから教わりたいと思っています。

 

生きるのは苦しいことでもある。

でも、死ぬのは幸せになってからでいい。

わたし自身、そう考えて生き抜いてきた一人です。

 

生き方

生き方って、親や社会のこうあるべき、っていうのに決められちゃってる場合が多くて、自由になるには、まずその檻を破って外に出ないと無限の自由は手に入らない。

 

大人になって長いのに、

上手く檻を破れない。

恐怖が先に立つ。

 

不自由さも、恐怖も全て、

心が感じているだけじゃなく、

身体も感じ取って背負ってくれていて、

 

ダルさ、苦しさ、やる気無さなどに始まって、不調としてあらわれる。

 

最初から、檻に入れない子育てをできたら良いのだろうね。

 

この社会と折り合いをつけながら、そんな子育て、できるものなのかな。

 

子の幸せを願うなら、そこんところちゃんと向き合っていかないと。

 

お母ちゃんの挑戦は続く…。

身体とこころ

身体が思うように動かない時、歳なのかな?なんて思うお年頃。

 

でも、ちょっとまって。

メインテナンスが必要なのかもしれない。

 

他人様のお身体をケアする仕事をしていても、自分の身体となると事情が違ったりする。

 

不調の箇所に手が届かないのだ。

 

けれど、自分の身体を持て余して、他人様にアドバイスなど、おこがましい。

 

なんとしてもセルフケアで元気にならねば!

 

試してみるとゴムボールが具合が良く、

ボールの上に寝転がってコロコロ。

 

思っていた何倍もの圧痛がある。

かなりのバッドコンディション…。

 

また一日ではほぐれず、毎日の日課に。

 

目の痛み、頭痛、肩凝りが徐々に良くなる。

姿勢が良くなり、良い声が出る。

食欲が落ちつき、お通じも順調に。

 

苦痛だった炊事、掃除がこなせる。

夜もぐっすり眠れるように。

 

歳のせいではなかったたくさんのことがうまく機能し始めた!

 

自分のメインテナンスを怠っていたことを猛省し、自分に謝りました。

 

大切にする、ということについて、なにもわかっていなかったことを、今更ながら自分に教えてもらいました。

 

皆さまもご自愛くださいませ。

 

気持ちを出す

心にあるものを、出さない、出せないと健康を害します。

 

なにを思うのも自由だし、人であれば誰だって汚い心くらい持っている。

 

どう表現するか、は相手がいる場合とても大事だけれど、その表現の仕方によって、自分の心にあるものが曲げられてしまったり、歪んで表出されてしまうと、自分自身への信頼がゆらぎ、自分との関係がこじれてしまう。

 

そんな時に子どもであれば、抑えた気持ちが咳になったり、ということも聞く。

 

自分の中に湧いた気持ちというのは、訳あって湧いたものに違いないので、なんらかの形にして表現してあげることが、身体のめぐりを良くし、取り巻く環境のめぐりをも良くするのではないかと思う。

 

 

どこを見てる?

過去、現在、未来

 

どこを見て生きているか。

 

それによって今日の感じ方が違うように思う。

 

そして、どこを見るのか正解ってこともない。

 

全てが自分を構成する要素。

 

生きられるのは今現在だけだけどね。